今日は私の小学生の頃の思い出を少しだけ。
私の小学校
私は関東出身です。埼玉県の小学校を卒業しています。小学校の頃の記憶ですからかなり曖昧なのですが、当時特別学級のお友達がいて、時々同じ教室で授業を受けていました。彼はUくん。話せない子でしたが、いつもニコニコしていて、とても綺麗な顔立ちの優しい子でした。どちらかというとかなりじゃじゃ馬だった私は、どちらかというと大人しい子より、外で走り回る方だったので、U君とはあまり遊ぶことはなかったのですが、それなりにクラスに打ち解けていたように記憶しています。
さて、そのUくん、何故話せないのかって?
当時の私には何もわからなかったのですが、今ならわかります。彼は「気管切開」をしていました。そして喉に「人工鼻」という道具をつけていました。
当時の私は、当たり前ですが普通の小学生ですので、それが何なのかはわからず、ただ時々同じクラスに来るU君は、喉に何か道具のついた無口な子。という印象でした。
当時はこういった医療的ケアの必要なお子さんが同じクラスにいることに対して、何とも思っていませんでしたが、今思えば、珍しいことだったのかもしれません。
クラスのちょっと変わった子
さて当時小学校のころ、私の学校は3年生と5年生に上がるときにクラス替えがありました。1年生のころ同じクラスだった女の子でSちゃんという子がいました。背が高く、スラっとしており肌の白い綺麗な子でした。けれどちょっと何か変わっている。そんな子です。
Sちゃんは普通に会話ができます。でも何かおかしい。ちょっと…う〜ん、挙動不審のような様子がある。悪い子ではないのですが、何かおかしいぞ?という印象。会話が噛み合わないんですね。誰かと一緒にいることもなく、一人でマイペースに席についてゴソゴソとしている。そんな子でした。
しかしテストの成績は比較的良好で、クラスでも真ん中より上に必ずいる子でした。 一緒に遊ぶようなお友達もおらず、かと言ってそれを苦とも思っている様子もありません。
みんなと同じことができないSちゃん
こういう子って、昔から学年に何人かいたように思います。Sちゃんもまさにそうで、いろいろな学校での集団活動が、全くこなせない。一人でじっとしているかと思えば、急に大きな声出したり。 みんな何となく近寄らない。そんな雰囲気がありました。 そんな中、そのSちゃんとずっと同じクラスだった私。低学年の頃から知っているので、何となく近い関係でした。席替えでも、近くになることが多く、一緒の係をしたり、同じ班を組んだりとしていました。
卒業の年
こうしてずっと同じクラスだったSちゃん。 卒業が近づいた頃、個人懇談で担任の先生から私の母へこんな話がありました。 ずっとSちゃんと同じクラスにさせてもらいました。なかなか溶け込めないお子さんだったので、たくさんフォローしてもらえました。 クラス替えが、どこまで先生の意図が入るのかはわかりませんが、私とSちゃんが同じクラスだったのには、どうやら意味があったようです。 元々世話焼きの私は、確かにSちゃんのお世話を焼いていました。 実際Sちゃんからしたらありがた迷惑だったと思います。当時の私は「障害児」と言うものもほとんどわかっていないわけです。ですから、自然とお世話をするだけでした。 今、Sちゃんがどう言う生活を送っているかは知りません。けれど、今思えば、子供って事実をありのまま受け止めるものですから、Sちゃんだけが特別だったとも思いませんし、私が特別良い行いをしたわけではありません。純粋に同じクラスの友達として6年過ごしていました。 障害などを抱えていると、本人・家族は本当に大変だと思います。けれど、環境によってはそれは何の障害でもなく、スッと生活に溶け込むことがあるんだな。そんなことを思ったりします。 人が生活に溶け込む。そしてその生活が、人の中で活きる。そう言う支援が広げられることが、私のちょっとした目標なのかもしれません。
【長岡菜都子(だんらんコーディネーター)】
リハビリテーション専門職である言語聴覚士の国家資格を所有。病院勤務を経て、訪問看護ステーションに入職。以後12年間で、訪問リハビリテーションを学ぶ。対象は乳幼児から高齢者まで幅広く、病気や障害を抱えながらも、にいかにして家族とともに充実した温かい生活を送れるかにこだわり、支援している。
現在は病気や障害を抱える当事者に対し、『個別』ではなく、家庭や関係施設へ『戸別』に訪問し、主に「はなすこと」「たべること」に関する、赤ちゃんの育み支援、こどもの学び支援、成人・高齢者の生活支援を行っている。
その他、医療・福祉・介護・教育施設等への外部講師等も行い、「はなすこと」「たべること」のバリアフリーを目指し活動中。
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